日本が前進するには、もっと移民を受け入れるべき
稲垣 康介
- 2023/05/27
インタビュー
今年の秋、一人のウクライナ人が20年余りを過ごした日本を去り、母国に帰る。指導者として、日本フェンシング界に史上初の五輪メダルをもたらした陰の立役者、オレグ・マツェイチュクさん(44)だ。
プーチン大統領の独裁下にあるロシアの蛮行で、今も空爆の危険にさらされているキーウの自宅に戻る決断の背景には何があるのか。慣れ親しんだ日本への思いとは。オレグさんが思いの丈を語ってくれた。 取材・文/稲垣康介(朝日新聞編集委員)
太田雄貴さんらを指導するフルーレの統括コーチとして、日本フェンシング界に五輪メダルをもたらした元日本のナショナルチームコーチ、オレグ・マツェイチュクさんとの久々の再会は、JR上野駅近くのカフェだった。コロナ禍が明け、海外からの観光客でアメ横ににぎわいが戻っていた。
「この1年余りは眠れない夜が多かった。そして、今もロシアの蛮行で戦争は続いている」。心からの笑顔は出てこない。
昨年2月24日にロシアの軍事侵攻が始まった後すぐ、妻と娘は自宅のあるキーウから逃れた。600キロ離れた西部の町に車で避難し、その後は一時、イタリアのシチリア島の友人宅に身を寄せた。70代の母は一人、自宅を守ると言って残った。空爆を恐れ、夜は地下鉄駅の構内で寝泊まりする日々が続いた。
平和な日本の日常、祖国とのギャップ
難民受け入れに消極的な日本だが、戦火のウクライナを脱出した人々は「避難民」として特別措置で受け入れた。
「だから日本には感謝しかない。ありがとうございます、と日本の皆さんに伝えたい」
元日本チーム監督の江村宏二さんが「ウクライナ人コーチの家族を助ける会」を立ち上げ、日本代表の選手たちも賛同し、ウクライナにいる家族の支援や生活再建などのための資金を募ったことへの感謝も添えた。
2003年の来日から過ごした日本をこの秋に去る。キーウに戻った家族と一緒に暮らすために。「やはり、家族は一緒じゃないと。故郷、母国にまさるものはない」
日本での暮らしは、スタートから全力を尽くした自負がある。
「日本に順応する難しさなんて、気にしたことはない。ネガティブなことはあまり考えなかった。文化の違いはある。それは人生の一部。僕は日本にいるんだから。僕は仕事に没頭した。ミッションがあった。フェンシングという仕事に集中した。打ち込むものがあったことが幸せだったのかもしれない」
ざっくりと、「日本」「日本人」の特徴について聞いた
「来日した当初、誰も日本がフェンシングの強豪国になれるなんて、信じようとはしなかった。僕は一緒に信じてくれる人がいたのが幸せだった。それは暮らしの面も含めて。僕は最初の3年間は単身赴任だった。強化の責任者の張西厚志さんに、家族のいない暮らしには耐えられないと訴え、家族も来日できた。娘は日本で生まれたよ」
次は失敗を恐れて、挑戦をためらう文化にも言及した。
「挑戦すれば、ミスは避けられない。僕にも痛恨のミスはあった。挑戦しなければミスもしないけれど、成功の道に導くには、挑戦は不可欠。日本はローリスクの社会。失敗を怖がりがち。それはスポーツに限らない」
コロナ禍が一段落しても、まだ街ではマスク姿が目立つ。同調圧力が社会に浸透している。
「日本は歴史がある国だ。DNAが受け継がれ、その国の形を作る。マスクもそうだし、組織で会議をしても、大抵,皆黙っている。僕だけが発言していることが多かった。この20年、改善している。それは間違いない。でも、まだ、遠慮して発言しないことが多い。恥をかきたくないのか、拒絶されたくないのか、どうなんだろう」
移民受け入れの姿勢についても、共通のものを感じるという
「僕は幸せな日々を過ごした。26歳になる息子は日本の大学を卒業して、東京で働いている。彼はウクライナに戻るつもりはないみたいだ。ただ、もっと日本は外国人に門戸を開いたらいいのに、とは思う。外国人が交じることで悪いことを持ち込むこともあるけれど、いいことも多い。何にでもリスクはある。でも、リスクを取らなければ、チャンスもない。日本が未来に向けて前進するためには、もっと移民を受け入れるべきだ。ローリスクの日本は、このままでは停滞していく。勇気を持って、リスクを取る必要があるんじゃないか」
日本で暮らす外国人の割合はまだ3%に満たない。少子化が進み、このままだと人口が減り、活力を失われた「縮む国」になっていく。
「日本は文字どおり、海に囲まれている島国。街を歩いている人たちのファッションは流行に敏感だし、料理もおいしいし、安い。治安もいい。だから、変化を好まないというより、変化する必要性、切迫感がないのかも。日本の人たちは今、十分幸せなんだと思う」
オレグさんはフェンシング界には、間違いなく改革をもたらした。
来日当初、太田選手はオレグさんと少し距離を置いていた。自分のスタイルを崩されたくなかった。「雄貴は、日本人には珍しく自己主張が強い。耳をふさいでいるときに、無理に教えてもムダだと思った」。選手の気質をとらえる才覚がオレグさんにはあった。
04年アテネ五輪のから2年後の秋、スランプに悩んでいた太田選手はオレグさんに頭を下げた。「レッスンをお願いします」。邪魔なプライドを捨てた。
これをきっかけに流れが変わり、06年のドーハ・アジア大会で日本勢28年ぶりの金メダル。08年北京五輪でも、「絶対に北京でメダルをとる」と太田選手は自らを鼓舞し、銀メダルを手にした。絆で結ばれた師弟関係がもたらした日本フェンシング界初の五輪メダル。太田選手の知名度は一気に上昇し、いまは国際オリンピック委員会(IOC)委員の肩書を持つ。
「フェンシング界は小さな世界。だから、僕が少しは変化をもたらせた面がある。でも、日本は1億人を超す人々が暮らす。何かを大きく変えるのは大変かもしれない」
オレグさんの日本でのフェンシングの章は終わった。東京五輪で日本チームとの契約は終了し、今はジュニアを中心にプライベートレッスンを取っているが、家族との生活を優先することにした。今後もフェンシングに関わるかは未定だという。
「私はその本を閉じた。来年夏のパリ五輪で、大好きな日本の教え子たちの活躍を、もちろん祈っています」。